takakura03名俳優の高倉健(たかくら・け ん、本名・小田剛一 83歳)さん が、10日午前3時49分、悪性 リンパ腫のため東京都内の病院で 亡くなってたのが18日にわかりました。


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謹んで、ご冥福をお祈りいたします。  

俳優の高倉健さんが、どんな俳優だったかは?みなさん良くご存知だと思いますので、ここで改めて説明するまでもないですね。  

よって、高倉健さんの 『プロフィール』 『ご結婚と子供』 の2本建てで記事を書きたいと思います。  

 

高倉健さんのプロフィール

高倉 健さんは、日本の俳優・歌手。愛称、健さん。

戦後の日本を代表する映画スターである。

本名: 小田剛一(おだ ごういち)
芸名: 高倉健(たかくら けん)
生年月日: 1931年2月16日 (83歳没)
出身地: 福岡県 中間市
身長: 180 cm
配偶者: 江利チエミ (1959年 – 1971年)
学歴: 明治大学
 

 

【ウィキペディアより引用】

1931年に福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた。

 

母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った。

 

学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった。

 

英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた。

 

福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。

 

大学卒業後、思ったような就職先がなく一旦帰郷した。 1955年に大学時代の知人のつてで、美空ひばりらが所属する。

 

新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接テストを受けたが、その場に居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、

 

東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。 同期に今井健二・丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎らがいる。

 

当時、ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所で6か月の修行(エキストラ出演など)を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという。

 

しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。  

 

高倉健さんの、ご結婚と子供は?

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結婚 1959年(昭和34年)2月16日、高倉健さん(当時28歳)と江利チエミさん(当時22歳)が高倉健さんの誕生日の日に結婚されました。

 

当時は、江利チエミさんの方が知名度が高く人気もありました。 江利チエミさんは、美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、3人による主演映画「ジャンケン娘」「ロマンス娘」がヒットするなど、まさに人気絶頂期の頃です。

 

一方、高倉健さんはデビュー4年目の若手俳優で、まだ世間に名前が知られていませんでした。

 

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二人の馴れ初め 二人は、「恐怖の空中殺人」(1956年,東映)で共演。以前から江利に憧れていた高倉健さんは、これをチャンスとドライブやボーリングなどに誘い、見事彼女のハートを射止めました。

 

結婚後も二人は、仲睦まじい様子を報道陣の前で度々披露してます。 がしかし、結婚生活12年目の1971年に二人は離婚します。

 

でも離婚後もお互いのことを慕い続けたと言われています。    

 

離婚の原因 その理由は、離婚の理由ともなった義姉(異父姉)に有るようで、義姉の言われ無き理由により江利チエミを憎み、高倉・チエミそれぞれの「誹謗中傷」を吹き込み、離婚への足がかりをつくり、挙句の果てに高利の借金をし、不動産を抵当に入れ、失踪、自殺未遂にまで至った。

 

江利チエミさんは自己破産せず、責任は自分で取ると決意すると同時に、高倉健との離婚も決意する。

 

多額の借財により高倉に火の粉が及ばないよう自ら身を引いたようだが、高倉は離婚の時にはそんな、彼女の頑なな離婚意思の真相に気付かず、後になって、理解するようになったのだという。

 

つまり、江利チエミさんは高倉健さんに迷惑が掛からない様に身を引いた訳ですね。  

 

運命は時として残酷なもので、江利チエミがやっと多額の借財を返し終わったときです。  

 

1982年(昭和57年)2月13日午後、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で、うつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。

 

若すぎる45歳の死です。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息によるものだった。  

 

高倉健さんの、すごいところは(^^) 高倉健さんがお亡くなる現在まで、江利チエミさんの命日にはご実家に線香の箱を送るそうです(たぶん普通のお線香じゃないんでしょうね)そして仏のしが掛けられているそうですがそこに高倉さんの本名の名前で送られているそうですよ。

 

そのことを聞いただけでも信頼しあっていたんだなぁ義理堅い人だなと思いますね。 二人は、そもそも憎しみ合って離婚した訳じゃないですもんね。

 

更に、高倉健さんは江利チエミさんのことを想ったのでしょうね?離婚後の現在までの32年間を独身で通しました。

 

あっ!それから高倉健さんと江利チエミさんとの間のお子さんは1回流産した見たいで、その後はあえて子供を作らなかったのかは不明ですが?子供はいません。  

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