デヴィ夫人の波瀾万丈の人生とは?
もしインドネシアの元スカルノ大 統領が根本 七保子(デヴィ夫人) を見初めなければ恐らくデヴィ夫 人の今日は無かったと思います。
出逢いが無ければ、当時貧乏生活だったので別の人生を歩んでいたでしょうね。
【目 次】
デヴィ夫人の(学歴・子供・総資産は?)
1940年にデヴィ夫人は
大工をしていた父親の長女として生まれます。 そして後に弟も生まれるんですね。
当時の根本家は、生活が苦しく貧乏の生活をしていたので思う様に進学ができません。
それでも昼間を働きながら東京都立三田高等学校の定時制に入ります。
その定時制を通うのも難しくなり、家の家計を助ける為に定時制を中退して昼も夜も働きました。
弟だけは大学に行かせたい、そんな思いから、昼は喫茶店のアルバイトをして夜は、収入が多い赤坂にある高級クラブ『コパカバーナ』で働きます。
学生の頃のデヴィ婦人です。
美人ですねぇ~~~~~!(^^)
これだったら、元スカルノ大統領が見初めるはずです。
【ここで訂正とお詫びです。】
このデヴィ夫人の記事は、2013年7月に書いた記事ですが、この画像がデヴィ夫人でないことが判明しました。
それと、この画像もデヴィ夫人の記事で良く見かけますが、これも誤り画像です。
それからデヴィ夫人に関して、隠された事実が色々と分かってきましたので、今、新たにデビィ夫人の記事を作成中です。乞うご期待ください。
元スカルノ大統領との馴れ初めは?
元スカルノ大統領が来日する度に、日本政府要人と接待に使う場所として赤坂にある高級クラブ『コパカバーナ』を利用していました。
思い出してください。
この『コパカバーナ』には、根本七保子さんことデヴィ夫人が働いています。
しかもあの美貌ですよ。(^^) あなたの想像通りの展開になるんです。
元スカルノ大統領が七保子さんを放っておくはずがないです。
元スカルノ大統領が根本七保子さんを気にいるんです。
それからと言うものは、接待の度に七保子さんを専属のホステスにするんですね。
こうなれば、元スカルノ大統領の頭の中は、七保子さんをインドネシアニ呼びたい一心です。(^^)
1959年(昭和34年)19歳のときにインドネシアへの開発援助に伴い「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領のもとに送り込まれたんです。
要は、元スカルノ大統領の『愛人』の意味合いなんでしょうかね。?
当初は単なる愛人の一人だったが、勤勉な態度が認められて結婚、第三夫人となる。
第三夫人としてインドネシアへの経済援助(ODA)や、日本への資源輸出などに積極的に関わった。
デヴィ夫人の子供は?
一人娘の『カリナ』さんがいます。
2005年(平成17年)11月26日にオランダで米系大手金融機関シティバンクの欧州・中近東・アフリカ地区CEOフレデリック・シーガスと挙式しています。
娘のカリナさんの、お孫さんです。
デヴィ婦人が25歳の時です。
1965年9月30日 (9・30事件)<軍事クーデター>が勃発しスカルノ大統領」は失脚した。
軍の最高司令官クラス9人が射殺され古井戸に投げ込まれるという残虐さであった!
「デヴィ夫人」は日本大使館に亡命を求めたが聞き入れられず急ぎ日本に命からがら逃げ帰りました。
「デヴィ夫人」のお腹には赤ん坊が宿っていた失意の中1967年「慶応病院」で無事に長女「カリナ」ちゃん(インドネシア語で星の精)を出産した
スカルノ死去後、第3夫人のデビィ夫人にも遺産分与が行われたそうです。
それから子供と一緒にフランスに亡命する。
デビィ夫人の資産第1夫人他には、そんな資産がないことから、政権崩壊前に資産を個人名義の口座に移したり、大統領から贈られた所有の島の名義も個人名義に切り変えていたということではないでしょうか?
1970年に、スカルノ大統領の死後にインドネシア政府より多額の財産を分け与えられたと言う事ですが。
デビィ夫人のこと
インドネシア名: ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
生年月日: 1940年2月6日(73歳)
出身地: 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)血液型: ?
身長: ?
職業: マルチタレント
子供: 一人娘((カリナ)