郷ひろみさんの生まれは、福岡県で旧国鉄職員の父親が東京に転勤になったので家族も東京に一緒について行きます。
東京で、小・中・高・大学(日本大学法学部)ですが、芸能活動を優先させる為に大学を中退します。
【目 次】
郷ひろみさんの歌手生活は本当になが~い!
芸能界に入るきっかけは、銀座であった映画のオーディションでジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川さんにスカウトを受けてジャニーズ事務所に入ります。
しかし、郷ひろみさんの歌手生活は、本当に長いですね半世紀近くですよ。
1972年8月1日に「男の子女の子」で華々しく歌手デビューの曲が
いきなりの大ヒットですからね。
そして翌年の1973年には、紅白歌合戦に初出場し(以後1985年までの13年連続出場を果たします)
郷さんは、毎日が過密スケジュールにより多忙で多忙で、睡眠は3時間ほど、食事はゆっくり食べる暇もなくいつも移動中の車の中で済ませます。
余りにも多忙過ぎる。
郷ひろみさんとしては、芸能界で長く生き残るために、きちんと歌やダンスの基礎を学びたいそんな気持ちをジャニーズ事務所に伝えましたが。
そんな郷ひろみさんの願いが叶うことはありませんでした。
ジャニーズ事務所としては、今が旬の郷ひろみさんを全面に出して稼いでもらう事なので、歌とダンスのレッスンは二の次になる訳です。
郷ひろみがジャニーズを退所した 本当の理由を明かそう。
郷ひろみさんは、15歳で「男の子女の子」で歌手デビューを果たし一気に爆発的な売上と人気を得ることに
仕事は超多忙で、睡眠は3時間ほど、食事はゆっくり食べる暇もなくいつも移動中の車の中で済ませます。
余りにも多忙過ぎる。郷ひろみさんとしては芸能界で長く生き残るために、きちんと歌やダンスの基礎を学びたいそんな気持が芽生えます。
当時のジャニーズ事務所は、小さい規模の芸能事務所だったんですネ。
ですから、今が旬の郷ひろみさんに歌やダンスのレッスンを後回しにして、とにかく郷ひろみさんに稼いで貰いたかった訳ですよ。
そんなこんなで、郷ひろみさんとジャニーズ事務所との方向性に違いが出るようになり、郷ひろみさんはジャニーズ事務所を退所することを考え初めます。
郷ひろみさんが、そんな考えをジャニーズ事務所以外の人間に相談したかは不明ですが、郷ひろみさんの切実な思いを「バーニングプロダクション」が知ることになり。
バーニング社長がナベプロも交えてジャニーズ事務所のメリー喜多川女史に、これからは郷ひろみの面倒を見たいと話を持ちかけます。
話し合いの結果ジャニーズ事務所側は、郷ひろみさんのバーニングへの移籍を承諾して1975年3月に郷ひろみさんはハーニングに移籍します。
つまり郷ひろみさんがジャニーズ事務所を離れた理由は、事務所との方向性の違いですが・・・・
これは表向きの理由で、本当の理由は別にあります。
それは、郷ひろみさんとジャニー喜多川氏との関係です。
ジャニー喜多川氏は、郷ひろみさんを溺愛しある時に一線を超えてしまうのです。 つまり少年愛です。
そんな関係がずっと続き、郷ひろみさんは耐えられなくなり、もちろん仕事が超多忙なこともありますが、それよりも耐え難いのがジャニー喜多川氏との関係です。
そんな、郷ひろみさんとジャニー喜多川氏の関係を姉のメリー喜多川女史も薄々気がついてました。
ところが、そんな二人の関係をバーニング社長が知ることになります。
そして、ナベプロを交えてのジャニーズ事務所との話し合いが始まります。
メリー喜多川女史は二人の関係を知ってますので、何も言えず郷ひろみさんのバーニング移籍を承諾します。
これにより郷ひろみさんは、揉めて事務所を去るのではなく円満退所になる訳ですから、そのまま人気も衰えず芸能界で活躍します。
尚、ジャニー喜多川氏の少年愛は元ジャニタレの暴露本で発覚します。
ジャニーズ事務所は暴露本を書いた者を提訴しますが裁判で敗訴してます。