太宰府天満宮は、菅原道真公の
御墓所の上にご社殿を造営し、
その御神霊を永久にお祀りしている
神社です。
学問・至誠・厄除けの神様です。
【目 次】
菅原道真公のプロフィール
平安時代前期 | |
承和12年6月25日(845年8月1日) | |
延喜3年2月25日(903年3月26日) | |
幼名:「阿呼」(あこ)の後に「吉祥丸」へ改名 | |
尊称:菅公、菅丞相、天神、天神様 | |
天満大自在天神 日本太政威徳天 北野天満宮天神 |
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太宰府天満宮 | |
従二位右大臣 贈正一位太政大臣 |
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宇多天皇→醍醐天皇 | |
菅原氏 | |
父:菅原 是善 母:伴真成の娘 |
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島田宣来子 | |
長男:菅原高視 女子:菅原衍子 |
菅原道真伝説
菅原道真は,平安時代の学者で政治家でもありました。醍醐天皇の時,右大臣となりましたが延喜元年(901),藤原時平の政略により太宰府に左遷され,延喜3年(903)にその土地で亡くなりましたが,その一方で,道真公は密かに薩摩にくだり,東郷町の藤川で余生をおくったとも伝えられ,その藤川に行く途中の川内市湯田町には,道真公にまつわる伝説が残されています。
太宰府に左遷されてからの道真公は,ひたすら謹慎の日々をおくっていましたが,道真公が生きていては自分の立場が危うくなると考えた藤原時平が,都から刺客がおくったとの噂が道真公の耳に入ると,密かに太宰府を脱出し,海路南下して川内の湯田口海岸につきました。その船をつないだという『菅公船つなぎ石』があります。石のある湯田町は,現在の海岸から幾分離れていますが,道真公の時代には入り江になっていたのかもしれません。
船を降りた道真公は,途中歩き疲れ道端の石に腰をおろして休みました。この石を『菅公御腰掛石』と呼んでいます。昭和初期頃まで,この石に乗ったりいたずらすると,頭が痛くなったり罰が当たると子供たちに教えていたそうです。
また,道真公はしばらく湯田に滞在して土地の人々に学問を教えていました。ちょうどその頃,田の蛭が多くの人々を困らせているという話を聞くと,池を掘って付近の蛭を全部池の中に集め人々の悩みを解消されたともいいます。この池を『蛭が池』と呼び,旧湯田小学校が建てられていた場所と伝えられています。