a-017月15日は、追山笠が博多の町を駆け抜けるけんね。 この日は朝早かばってん、見応えがあるとばい。 ところで、博多の三大祭をしっとうですか?   ●5月の『どんたく』 女性の祭りです ●7月の『博多祇園山笠』 男性の祭りです。 ●9月筥崎宮の『放生会』 露店が何百も並ぶ祭りです。


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まずその前に、博多の、のぼせもんやったら山笠ば語らんと!

  博多のぼせもんの! 山笠んあるけん! 博多たい! 【訳すと】 博多のお調子者が! 山笠があるから! 博多です! と言ってます。(^^)

 

博多弁は、ほんなごつよかばい。  

方言に、福岡弁と博多弁があるのって知ってました?

  ほんの少しだけ紹介します

 

【福岡弁】先生がきたよ。 これやっといて(しといて)。」
【博多弁】 「先生がきんしゃったよ。 これしとっちゃらん?」
【標準語】 「先生がきたから。これをお願いします。」  

 

【福岡弁】 「そんなん知らんよ!
【博多弁】 「そげん(か)こと知らんばい!」
【標準語】 「それは知りません!」  

 

【福岡弁1】 「あんたカッコばかりつけとうねぇー。
【福岡弁2】いいやん、うるさいね~(うるさか~)。」
【博多弁1】あんたつやつけとおねぇー。
【博多弁2】よかやなかね、しぇからしか~。」
【標準語1】 「あなたはカッコウをつけてますね。」
【標準語2】 「いいじゃないですか、少しうるさいです。」  

 

【福岡弁】 「そんなこといっても、わからんちゃない。

【博多弁】 「そげんことゆうても、わからんくさ。」

【標準語】 「それを言っても、わからないと思います。」  

 

ここで博多弁の注意点を一つ言います。

 

『よか』と言う言葉は二通りの使い方があります。 【例えば】 映画に行ってもよかよ!・・・・・物事をOKしたときに使います。  

 

それはよか!・・・・・・・・・・・・・・物事を断るときに使います。

 

会話の流れで使い分けをします。  

 

博多弁の使い方を話すと長くなりますから、今日は割愛させていただきます。  

 

その代わりに歌手の森口博子が博多弁で歌っている歌を紹介します。  

 

森口博子 – 会いたい (博多弁 Ver.)

   

 

博多の三大祭です。

1. 5月3日・4日の『どんたく』です

「博多どんたく」は博多松囃子を母体として形成・発展してきた。

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 博多松囃子は、治承3年(グレゴリオ暦1179年に病没した平重盛に博多の者が恩(日本で最初の人工港「袖の湊」造営などの)を謝すため始まったと伝えられる、と貝原益軒の『筑前国続風土記』には記されている。元日節会が平安時代に地方に伝わり、博多の人々がそれを発展させたのが始まりとも言われるが、確かな起源は定かではない。室町時代の松囃子の習慣が博多にも伝播したのが始まりとも考えられる。  

 

2. 7月15日 追い山の『山笠』です。 現在見たいに電柱や電線と各ケーブルがないときは、背が高い山が走ってたそうです。

 よって現在は、2番目の画像の山が走ってます。  

 

大昔に走ってた山 現在は飾り山として使用

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現在に走っている山

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 博多祇園山笠の起源については諸説あるが鎌倉時代の1241年(仁治2年)に博多で疫病が流行した際、

 

承天寺の開祖であり当時の住職である聖一国師(円爾)が町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗り水を撒きながら町を清めてまわり疫病退散を祈祷した

 

ことを発祥とするのが通説である安土桃山時代島津氏と豊臣氏” 豊臣氏の戦いにより博多の街は焼け野原となったが、

 

豊臣秀吉が帰国の際、博多の街をいくつかの区画毎に「流 (博多)”流(ながれ)としてグループ化し復興を行った(太閤町割)。

 

この「流」が博多祇園山笠のグループ単位の発祥である。戦後の一時期、13流に増えたこともあったが現在の

 

「流」は恵比須流、恵比須流、大黒流大黒流、土居流、東流、西流、中洲流、千代流、の7流である(福神流は過去の不祥事が原因で不参加)  

 

3. 9月12日~18日の筥崎宮の『放生会』です。  

 

通常、祭りの呼び名を『ほうじょうや、ほうじょうや』と言いますが。  

 

地元の人間は、『ほうじょうえ』と言ってます。どうでもいいことですが。(^^)  

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放生会は「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒める」神事。八幡信仰が広がるにつれて、各地の八幡宮で催されるようになったが、筥崎宮の放生会について京都・建仁寺の記録の中に「延喜19年(919年)箱崎放生始」とある。

 

今から千年以上も昔から行われていたわけで、この地がいかに古くから開けていたかが分かる。

 

世の中が落ち着いた江戸時代、筥崎宮は福岡藩主・黒田家の心のよりどころともなり、放生会は一段と盛んになった。  

 

もっと詳しい博多の祭りのことは、次回の記事に特集を組んで書きますね。(^^)  

お待たせしました、博多と福岡の違いです。(^^)

 

 福岡意外の人や、福岡の人でも『福岡=博多』と思っている人がいるかも知れません。  

 


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実は博多と福岡は全然違うんです。  

 

博多は、『商人』や『町人』の町で港が近いから外国との貿易が盛んで2000年の歴史があります。

 

方や福岡は、お武家様の町たかだか400年の歴史しかありません。   博多と福岡の違いを図で分かりやすく説明しますので、どうぞご覧ください。  

 

結論から先に言うと、福岡市の中心に縦に大きな川が流れてます。名前は『那珂川』です。  

 

その川を堺にして東側を『博多』と言い西側を『福岡』と言います。  

 

しかし、今で言うJRの博多駅の名前を決めるときに、博多側と福岡側で揉めに揉めたそうです。

 

の福岡空港は、博多側にありますが『福岡空港』になってます。   色々と駆け引きがあった見たいですよ。   その辺の経緯と、博多と福岡の歴史の紐を解いて詳しく説明したいと思います。(^^)

 

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おまけで珍しい地図です。

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驚くことに、博多と福岡の出入りが自由に出来なかったそうです。  

 

しいて言うならお互いの接触と接点があるとすれば、博多と福岡は那珂川を堺にしてますので、その那珂川にある中洲だけは唯一お互いに自由に出入りが出来ます。

 

  そうです。この中州には遊郭があったんです。  

 

その名残が現在のソープを含めた風俗店です。

 

中洲だけで無く、その界隈に所狭しと大衆店から高級店の飲み屋が大小合わせて何百イヤ何千もあります。

 

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これで、あなたも博多っ子の博多通になるのは請け合い間違いなしです。(^^)  

 

更に、詳しい博多と福岡の違いを知りたい人は下記の説明をどうぞ。(^^)

 

詳しい説明の必要ない人はスルーしてください。(^^)  

 

博多という街は歴史が古く、今から2000年以上も前から中国大陸との接点があり、港町として、そして商人の文化で栄えてきた街です。

 

古い文献・759年の「続日本紀」にも「博多大津」という文字が出てくるほど歴史がある街です。  

 

戦国時代、豊臣秀吉の全国統一の戦いで戦火に見舞われた博多の街は、アジアに向けた重要な港町と感じていた豊臣秀吉の手で復興・・そして江戸幕府ができる前、この博多一帯を治めていたのは、名島城(現・東区名島)を本拠としていた小早川秀秋でした。

 

この小早川秀秋は徳川家康率いる東軍と戦っていたが、土壇場で東軍に寝返り、最終的に全国統一を成し遂げた徳川家康に認められ、小早川秀秋は備前(岡山県)・美作の地を与えられ、岡山城に移ってしまいました。  

 

そして関が原の戦いの功績で家康に気に入られてた豊前中津城(大分県)を本拠としていた黒田長政が博多一帯の街・五十二万石をもらって、名島城に入城。この黒田長政の生まれた備前国邑久郡福岡(現在の岡山県長船町)にちなんで福岡と名づける。  

 

黒田長政は新しく城を建てるのにいい場所を探し、まだそんなに開拓されてない赤坂山(現在の中央区赤坂。当時は山だったらしい)などを削って築城、小高い丘で見晴らしもよく、この城を舞鶴(福岡)城と名づける。1607年の事である。

 

今でも中央区の赤坂門とか大手門という地名はこの城の門があった場所である。   もともとの博多の港の人たちや商人たちは、いきなり「福岡」という地名に変えろと言われて怒らないわけがない。

 

当時は猛反発だったらしい。そして元々の博多の町はそのままで、ほとんど何も無い所に城を建てた場所一帯を城下町・”福岡”とし、そして那珂川・博多川(那珂川の支流。

 

この那珂川と博多川との中州が、”中洲”である)から東側の地域を商人の町”博多”とした。  

 

この時、今から約400年前、福岡が誕生したのである。当時、城下町・福岡と商人の町・博多は仕切られていて、福岡と博多は自由に行き来ができなかった。

 

ただ、その福岡と博多の間にある、福岡でも博多でもない、藩の直轄地域の中洲は違った。中洲が当時から遊郭などの一大歓楽街で、博多側からは自由に行き来ができた。  

 

そして福岡の方からも自由にではないが、行き来が出来たらしい。この中洲という歓楽街が、福岡の武士と博多の商人との唯一の接点だったのである。城下町・福岡と商人の町・博多。

 

川を挟んで、関所で区切られてたこの2つの町は、住んでる人も武士と商人という風に違うし、言葉使いもかなり違ってたようです。

 

城下町・福岡ではかなり上品は言葉を使い、商品の町・博多では、もともとは港町だった(鎖国政策の為、貿易ができなかった)ので言葉は粗かったそうです。  

 

ただ黒田長政は城下町・福岡を建設する為に、博多の呉服商や御用商人、大工や鍛冶屋などの職人は、福岡に住まわせた様です。その名残りが、今現在では中央区簀子(すのこ)などで、その時代には簀子職人が住んでた町だったのです。

 

そして時は過ぎ・・江戸幕府が終わり、明治維新後の1867年、市制および町村制が公布され、1868年4月から福岡と博多は「福岡市」としてスタートするようになった。  

 

この時も博多の人たちは「福岡」という名前が気に入らなくて、「博多市にするべきだ」という運動が起こった。

 

「福岡市と博多市とで分離した方がいい」という意見も出たらしい。だが、行政区で福岡県となったのもあり、県として、「福岡市」という事に最初は決まったらしい。

 

だが、この問題はその後も続く・・福岡市が発足したその年の暮れ、九州初の鉄道が開通。この時の駅名を「博多駅」にする事で、「福岡市」派は「博多市」派をなだめたということらしい。  

 

そしてその翌年、第2回市議会で、「歴史上から見ても、市の名前を博多市に改めるべきだ」という決議案がでた。またこの問題である。

 

そして多数決で採決をとることに・・。ところが「福岡市」派と「博多市」派の多数決は同数。しかし議長の票が入ってなく、その議長が「改める必要がなく、福岡市のまま」と福岡市側に入ったため、市の名前は「福岡市」に決まって、この問題に決着がついたといういきさつがあります。  

 

そして千代町・堅粕町・箱崎町・香椎町・那珂町・西新町・鳥飼村・住吉村・能固村などと周辺の町村を合併していって福岡市の市域は広がっていった。

 

今となっては、福岡市博多区として「博多」という名前は残ってる。当時の「博多」からしてみればかなり広い範囲ではあるが、やっぱり博多の人から言わせれば、やっぱり「博多」なのである。それに博多には古い歴史がある、博多祇園山笠という祭りがある。

 

この山笠は福岡の祭りではなく、博多の祭りなのである。毎年7月13日に行われる博多祇園山笠での「集団山見せ」という行事。  

 

この行事は、福岡市の要請で、博多の山笠を那珂川を越えて福岡の人たちにも見せるようにと、1962年に始まったものです。

 

そして中洲の所にある「福博であい橋」。これは「福岡」と「博多」を結ぶ橋という意味で、いまだに博多の地域の人は「博多」にこだわりを持っていて、「福岡」と区別することが多い。

 

まして、この私も博多の地域で育ってきたので、その気持ちが強いのです。その事は福岡城跡に対する考え方にもつながってる事だと思います。  

 

もともと舞鶴城(福岡城)はかなり立派な城だったらしいです。だけど福岡の人ならば知ってると思うけど、今現在の福岡城跡はお堀しか残っていません。天守閣や建物自体が何も残ってないのです。

 

日本国内、昔あったお城を復旧したりして、大事に保存している中、福岡城だけはそんな動きもありません。

 

それは「博多」の人たちが「福岡城」に対する思い入れがなく、そして今現在もその思いがあり、そして福岡市としても元からの城下町・福岡の人ばかりではないと言うことでしょうね。  

 

最後まで見ていただき、ありがとうございました。

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