komadori02こまどり姉妹!実に懐かしいですね。(^^) 同じ様に双子で歌手デビューしたザ・ピーナッツがいますが 両者を歌手のジャンルで表現すると こまどり姉妹は『演歌』 ザ・ピーナッツは『ポップス』です。和と洋ですかね。


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こまどり姉妹の壮絶な人生を振り返る。

不幸は本人達に課せられた運命なのか?  

 

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こまどり姉妹は生まれる前から不幸が始まってた。

こまどり姉妹を生む1ヶ月前に、母親が釧路の井戸に落下、仮死状態になる。

 

姉妹は最初の試錬で、生きるか死ぬかの戦いの始まりです。    

 

こまどり姉妹の誕生です。

1938年(昭和13年)2月16日北海道厚岸郡厚岸町で貧しい家の炭鉱労働者をしている父親(恭一)のもとで双子として生まれます。

姉 長内恵依子
妹 長内敏子

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 ここでエピソードを二つ!

 

 未熟児として生まれた早生まれの二人を可哀相だと思った父親が、戸籍上の誕生日を4月1日に変更しますが、良く考えると結局早生まれになっちゃいました。

 

 妹の「敏子」はもともと「繁子」だったが、おっちょこちょいな父親が”糸”を忘れて敏子になったとさ。

 

ちなみに長内家は

 

貧乏・・ 超貧乏・・ 極貧乏・・  です。    

 

 

長内家は樺太に引っ越します。

一時的に暮らし向きが少し良くなったものの終戦を迎えて北海道に帰ります。   

 

終戦を迎え長内家は北海道に帰る。

北海道に帰って来てからは、帯広市、釧路市の炭鉱町を転々として父親は炭鉱の担ぎ屋として働きます。

 

その父親も、姉妹が11歳の時に結核を患い働けなくなり職を失い収入が途絶えます。

 

銭函でついに家賃が払えなくなり一家で夜逃げをして、次は大楽毛と言う所に移り住みます。 その土地で母親と姉妹の3人は、その日の生活費を稼ぐために母親の民謡で、知らない家を一軒一軒と伺い『門付け』を始めます。

 

今晩は 歌を1曲聞いて貰えませんか?・・! 今晩は 歌を1曲聞いて貰えませんか?・・!

 

いらねぇ~、帰ってくれぇ~! 大半がそんな感じだと思います。 どんなに辛くても、生活費を稼ぐために門付けをやめることはできません。

 

今晩は 歌を1曲聞いて貰えませんか?・・! 今晩は 歌を1曲聞いて貰えませんか?・・!

 

この門付けって?何なの? 知らない人の為に、門付けとは、大道芸の一つで家の門前に立って音曲を奏するなどの芸をし、金品をもらい受けることです。

 

そんな辛い日々が続き必然的にこまどり姉妹の二人は、母の民謡を覚え三味線を覚えました。

 

そんな、或る日のことです。 ある家の住人が、子供達は歌えるのかい?三味線は弾けるのかい? 母親が、どちらともできます。

 

じゃ~子供達の三味線と歌を聞かせてれ! ここから姉妹の、流し芸人の始まりです。(^^)  

 

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やがて、夜の飲み屋街を流して歩く様になります。 そんなときに、こまどり姉妹に転機が訪れます。

 

飲み屋のお姉さんが、同じ流しをするんだったら北海道ではなくて東京に行った方が稼げるし芸能界のチャンスも訪れると思うよ。(^^)

 

それを聞いた、こまどり姉妹は決意します。姉妹二人で東京に行こうとね。 両親を説得して、かすかな望みと不安を抱えて東京に旅立ちます。  

 

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東京での流し時代

1951年(昭和26年)に東京に行きます。 まだまだ14歳ですよ。

 

今から63年前に、東京に降り立った二人は、お金も少ないこともあって東京は山谷の木賃宿に住みます。

 

ガラの悪い無法地帯の山谷ですよ!(現在は山谷と言う呼び名は廃止されてます。)

 

そもそも山谷と言う場所は、安宿が多かったので日雇い労働者が集まるようになり、それがいつしか何万人も膨れあがり酒とヒロポンに溺れる者ばかりになりました。

 


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山谷はタクシーも拒絶する場所だったらしいです。  

 

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16歳のときに

辛い日々を乗り越えた甲斐があってか、徐々に仕事の声が掛かる様になり16歳の頃からお座敷によこう余興に出始め、稼ぎの方も徐々に増えてきました。    

 

17歳のときに

日々の努力が報われ、政治家や社長連中が良く使う料亭から声が掛かる様になります。 料亭に呼ばれれば、政治家や社長の前で自慢の声を披露します。

 

それから何年か過ぎたのでしょう、日本コロンビア社長の泰米造さんの目にとまり、コロムビアの大物ディレクター・馬渕玄三のテストを受け合格します。    

 

21歳で念願の歌手デビュー

1959年21歳で芸名の「浅草姉妹」でデビュー曲は「三味線姉妹」で歌手デビューを果たします。 この曲は、100万枚のミリオンセラーとなります。

 

芸名が「並木栄子  並木葉子」般公募の結果「こまどり姉妹」になりました。  

 

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最初に決まったデビュー曲 三味線姉妹 ♪ こまどり姉妹 動画

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変更になったデビュー曲 浅草姉妹 ♪ こまどり姉妹 動画

 

1961年 デビュー3年でNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。 23歳

 

そして、翌年も紅白歌合戦に出場して連続7回の出場を果たします。  

 

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1. 第12回紅白歌合戦 1961 曲 姉妹酒場

2. 第13回紅白歌合戦 1962 曲 未練ごころ

3. 第14回紅白歌合戦 1963 曲 浮草三味線

4. 第15回紅白歌合戦 1964 曲 女の恋

5. 第16回紅白歌合戦 1965 曲 恋に拍手を

6. 第17回紅白歌合戦 1966 曲 幸せになりたい

7. 第18回紅白歌合戦 1967 曲 三味線渡り鳥

 

これで、こまどり姉妹も苦労に苦労を重ねて、やっと報われる日が訪れるかと思いきや・・・・

 

神様は、この二人を試すかの様に新たな試錬を二人に与えます。    

 

【試錬その1】 1966年5月8日 28歳

 

人気絶頂期に、鳥取県倉吉市で公演中に突然、18歳の男が舞台に駆け上り、葉子を刃物で刺した。

 

この男は、栄子のファンで、結婚を望んでいたが応じてもらえなかったので、無理心中を図ったというものであったが、刺されたのは葉子だった。

 

葉子は腹部を刺され重傷を負ったが一命を取り止め、しばらくして舞台に復帰した。

 

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【試錬その2】 

 

1967年 29歳 事務所の税理士がお金を持ち逃げ。税金としておさめるために用意していたお金を持ち逃げされ、2人は脱税疑惑をかけられてしまいました。こまどり姉妹はお金を支払うために舞台で歌い始めました。ようやく借金返済の目処がついた矢先です。    

 

【試錬その3】 1971年5月と10月 5月に母のキエが、同年10月に父の恭一がこの世を去った。    

 

【試錬その4】 1971年6月 33歳 妹・敏子が仕事先の大分市で倒れ入院、織毛がんと診断され、この時に肺にも転移してることで余命1ヶ月の宣告を受ける。 どうしても助かって欲しい姉は、新薬の投与を決断。副作用で妹の髪は抜け、体重は20kg台に。姉はその間1人で舞台に立ったが、高額な治療費のため1億円の借金を負う

 

【試錬その5】 1973年 35歳   ひとまず芸能界を休業します。    

 

【試錬その6】 1974年 36歳   姉の栄子が女児を出産で未婚の母になる。今で言うらシングルマザーです。

 

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ここから一気に現在まで駆け抜けますね。あしからずです(^^)

こまどり姉妹が再始動する。(^^) 1983年 草津温泉の観光ホテルで1ヶ月公演を行い、徐々にエンジンが掛かって来ました。  

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2007年 日本歌謡界の大イベントである『遠藤実歌謡音楽祭』に出演 koma51

 

2008年 第50回日本レコード大賞で功労賞を受賞する。 koma52

 

2012年 蜷川幸雄が仕掛ける前代未聞のハムレットに出演する。 koma53

 

2012年 紅白初出場となるモモクロに自分達の体験談を語る。 koma54

 

2014年 新横浜ラーメン博物館にてキャンペーンをする。 koma57

 

2014年 徹子の部屋に出演する。 koma59

 

2014年 51年ぶりのラーメンソングを出す。 koma58   koma60

 

こまどりのラーメン渡り鳥

    最後に、こまどり姉妹が何故生涯独身だったか?

 

障害事件・脱税疑惑・病気・多額の借金で、結婚をする状態ではなかったのかと思います。

 

最後まで見ていただき、ありがとうございました。(^^)  

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